今回の首長インタビューは、山形県長井市の内谷市長。
役場職員、民間企業、市議会議員を経て市長として取り組むまちづくりについてお聞きしました。

kannoインタビュアー:株式会社MAKOTO WILL 代表取締役 菅野 永

地方銀行、公務員を経て2015年1月にMAKOTOへジョイン。2018年7月にMAKOTOグループ化に伴い、MAKOTO WILL代表取締役就任。

 

地元に残れる街にしたい。多業種が集まる民間から市長の道へ

 

まずお聞きしたかったのは首長を志した経緯です。市長のご経歴から並々ならぬ覚悟を感じました。どういった経緯だったのでしょうか?

実は私は若い頃から市長になりたかったタイプではないです。私は実家の稼業が専業農家ですから、親が苦労していたのはわかりました。
高校進学するときに、自分は親から農業を継いでほしいと言われるのかなと思ったら、もうこれからの農業ってかなり厳しいぞ、と。だから自分で生きたい道があったら、それを目指してもいいと言われて。
それで厳しい農業を救える、あるいは手伝えるような行政や総合商社に行きたいと思ったのです。日本の農業にはいいものがたくさんあるので、そういったものを海外に売ったり、他国家と一緒になってプロジェクトをやって開発途上国を支援したり、あるいは日本にいろんな恩恵を与えられるのが商社の魅力でした。
ですが当時は高度経済成長期ですから高校を卒業したら首都圏とか大都市に行ってそこで働いている人がいっぱいいたんですよ。団塊の世代のあたりからずっと。私の頃は地方にも製造業中心に企業が立地して人口減少は落ち着いていましたが、それでも特に自分の高校の同級生は半分以上がもう向こうに行って帰ってこない。やはりもっと地元に残れるような街にしたいなとちょっと方向転換をしました。それで地元の長井市の市役所に入庁しました。
そして当時の市長が、東芝の子会社だったマルコン電子という会社の取締役総務部長をしていた方で、この人はすごいなと感銘を受けたのです。

 

民間から市長になった方だったのですね。

そうです。市長にはなれないかもしれないけど、自分は政治の方で仲間や先輩と一緒になってこの街を良くしたいと思うようになりました。しかし自分は将来地方政治に関わるのであれば、社会のことを知らなさすぎると思っていた時に、たまたま当時、長井市役所に出入りをされていた街づくり専門員に非常に優秀な方が2人いたのです。もしこっちの道に進みたかったら、うちの会社で教えてあげるからどうだと言われて、当時の市長にも相談して、家族の反対を押し切ってそこに行きました。
街づくりのブランディングとか、都市の再開発の計画作りとか、そういうコンサル的な仕事をしているベンチャー企業で、多業種の民間出身の方が働いていました。
いろいろ教えてもらって4年が過ぎたときにIBM出身の社長が急性白血病により49歳で亡くなってしまったのです。それで、そこの役員で出版業で独立していた方からうちで勉強したらどうだと言ってもらって、そこでも4年、5年近く働かせていただいて。
あとは子供がちょうど高校進学なので、ちょうどいい頃合いかなと思って41歳ぐらいの時に戻ってきて、一度地元の会社に勤めてそこから市議会議員になり2期務めさせていただきました。そのタイミングで市長が辞めるということで、自分でやってみようと。4人で戦う選挙戦となりましたが94票差で勝ちました。

 

まず夢を持つ。チャレンジこそが未来へのカギ

 

僅差の選挙で当選されると1期目が大変と聞きますが1期目はどうでしたか。

いろいろ批判をされましたね。3分の1市長だとか。全体の割合でみると、確かに3分の1ぐらいしか自分の票はなく、議会で言われたりもしましたね。また当時は財政再建中でした。平成18年に夕張の破綻が明らかになって、総務省が実質公債比率を打ち出しましたよね。そのときに長井が27.7%で夕張の次でした。ただ、夕張の場合はいわゆる将来負担比率がとても高い状態にありました。

 

目に見えにくい負担が大きかったのですね。

そうなんです。ということで、そこでもう本当に財政は本格的に取り組まないといけないと、最初の2期はここに注力しました。ですから長井市の財政状況について色んな座談会を開いてタウンミーティングみたいな形で、皆様からの要望はお聞きしますけど、待ってください、財政再建に向けてこのようにして頑張りますから、と。これを8年間やっていました。


 

住民への説明責任から逃げずに厳しい現状を伝えつつ財政再建を約束したのですね。なかなかできることではないですよね。

大変でした。ただ、財政再建が明けたらこういうふうにしていくんだ、ああいう風にしていくんだと、市長選に出るときに自分のビジョンを出していたのです。もう当時から人口減少というのは国が予測データを出していました。ただ、大々的にはマスコミが取り上げていませんでした。実際には2008年から人口は減りだしています。
そのあたりからこれからの人口減少社会における街のビジョンは、国交省で言うコンパクトシティだと。そして、周りに小さな拠点プラス交通のネットワークを整備する。そういうスキームを作っていかないと、人口減少に耐えられないぞという考え方はずっと伝えてきました。
実際に一番の柱として最初にやったことは、中心市街地の賑わいづくりです。長井市はかつて製造業が盛んで昭和の50年代半ばぐらいまでは全盛期で、働いてる人がすごく多かったんですよ。ですから、人口規模から比べたら、商店街がすごく充実していましたし、あと飲食店もいっぱいあって、飲み屋がすごく多いのが特徴です。山形県では一番対人口比率が高かったんです。

 

にぎやかでいいですね。

そうなんですよ。それがもうどんどん会社を畳んだり、他の街に移ったりして、五つあった商店街がもうほとんど壊滅状態でした。
私が市の職員だったころはまだ元気でした。昭和の時代ですから若い人たちが街にいっぱい繰り出して、買い物のお客さんもたくさんいました。それをもう1回何とかしないといけないと考えました。
そのためにはやはり買い物だけじゃなくて遊ぶ機能や文化を感じる機能も作り、楽しめる街じゃないとやっぱり若い人には見向きもされないだろうと。ということで中心市街地の活性化基本計画を立てたのですが、新しいことには抵抗がつきものですので大変でした。最終的には組織の機構改革も行いながら進めていきました。

 

反対にあいながらも様々な政策を実現されてきていると思いますが、市長はどのような信念をお持ちになって地域経営をされているのでしょうか

市役所をやめていろいろな仕事をさせてもらう中で感じたのが、本当に世の中には諦めずに頑張っている人がいっぱいいらっしゃるということでした。そのとき、若い頃に聞いた上杉鷹山公の「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉の意味が改めて分かった気がしました。
あともう一つは渋沢栄一の夢七訓です。「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」
その通りなんですよね。やっぱりまず夢を持つ。これは、なに馬鹿なこと言ってる?と言われても、やっぱりそういうふうに夢を持つということは、まず第1ですよね。自分の街をこういうふうにしたいな、ああいうふうにしたいなという理想は何だと。そこでやっぱりそれを実現するには、信念がないと駄目なんですね。特に人に一緒にやってもらうには、いろんな話し合いをして、うまく仲間を作って、一緒になってやっていくのだから、みんな為せば成るという信念で頑張ろうよと。

もう一つ大事なことがあります。私も公務員のときはそうだったし、市議会議員のときに先輩から言われたのが我々行政というのは、税金で仕事をさせてもらっているんだと。
皆さんが汗水流して働いて、納めていただいた税金で仕事をさせていただく以上は絶対失敗したら駄目だと。だから、最初にきちっとした計画を作って一歩ずつ進めというようなこと言われてきたんですよ。確かにそれも大切です。
だけどそれでは、もう今の時代は立ち行かなくなるのです。責任は私がとるから、やろうよ、チャレンジしましょうということでいろんなことやってきて、みんなを励まして一緒にやると、ほとんど成功とはいかなくても失敗はしないですね。

 

分け隔てなく人材を発掘することで雰囲気が変化してきた

 

人材育成や組織運営に関してはどのような取り組みをされてきましたか?

地方創生で最初に言われたのは、若い人たちに地方に戻ってもらうあるいは留まってもらう。だからそのために地方に働く場を作るということでした。
しかし長井は元から有効求人倍率が非常に高いのです。製造業を中心に長井市だけで150社ぐらいはあり、有効求人倍率が、悪いときでも1.4とか。また驚くべきことは正社員の有効求人倍率は、山形県で一番高くて、2.0とか、こういったところが多いですね。
でもそれでも集まらないです。それはやはり製造業がメインだからなんです。結局就きたい仕事がないということで、仙台とか首都圏にいくわけですよね。

 

現代の若者は製造業で働きたい人ばかりじゃないですよね。

そうなんです。だからそういう場を作らなきゃいけないと考えて情報を集めていくと、国が動くなと思ったのです。その後デジタル人材の派遣を内閣府がやるとなりすぐ手を挙げました。手を挙げたのは多分全国で100自治体もなかったと思います。東北では福島市と、青森の十和田市と、あとうちの三つだけ採択となっています。
また長井市は職員の採用をずっとできない時期もありましたがキャリア採用も多いです。分け隔てなく、ある程度ペーパーテストはありますが、本人の考え方や経歴も重視しています。やる気のある方は地元出身じゃなくても関係なく、結構県外からも採用しています。いろんなところで経験した人たちがいますから、雰囲気が変わってきました。

 

人材の多様性があるのは素晴らしいですね。長井市さんはほかにも職員を積極的に外部に派遣されている印象もあります。以前東北経産局でお世話になった方が長井市の方でした。

東北経済産業局には今年で5人目ですね。あとは東北地方整備局や財務局、内閣府にも行ってますよ。

 

Well-beingを感じられる街づくり。お互いを理解し合える寛容性のある街へ

 

もう一つ市長にぜひお聞きしてみたいのが、先ほどの綿密に計画作るのもいいけど、まずやってみようという精神についてです。私はすごく好きで共感しますけれども行政の中にもいましたので、なかなか浸透しづらかったのではないかと思いますが、どうやって人材育成されてきたのですか?

例えば私とか、あるいは管理職から一気に浸透させるというのは難しいです。
というのは、いろんなケースがあるでしょうけど、うちの場合は3年前までは役所が6ヶ所にわかれていたんですよ。

 

そんなに分かれていたんですか。

そうなんですよ。なのであまり上司が行かないところにはなかなか徹底できなかったんですよね。
あとは部長制と8等級の給料体系をやめて6等級にしています。それと同時に組織をまず簡素化しました。
そのうえで私自身が長井市の将来ビジョンを丁寧に伝えると同時に、自分が担当しているセクションだけではなくて、いろんなところを知ってもらうようにしました。そして1年で異動などはせずに、必ず2、3年経って行きたいところがあったら必ず希望を出してもらうようにしています。そしてその希望にはできるだけ応えることで、いろんな業務に関心を持ってもらうようにしています。
志を持てと我々が言うよりも役所の仕事っていろんなものがあって面白いんだと知ってもらうことを大事にしています。そういった中で、あんまり口酸っぱく、上から何だかんだ言うよりも研修とか、同じ年代で交流することによって仲間を作ってほしい。どうせ働くのなら楽しく仕事ができるようにしたい。そしてあとはやはり喜んでもらえること。自分も含めて家族も含めて、本当にそれこそWell-beingですね。これを感じられるようなそういう街にしよう、そういう仕事を我々はしますよということを言ってますね。

 

素晴らしいですね。志を持って行政の扉を叩く方が多いのですが、入って幻滅する話もよくお聞きします。そんななかトップがそういうメッセージ発信してくれるっていうのはすごく皆さん嬉しいのではないかと思います。
最後に、今後に向けた抱負を教えていただけますか?

やはり若い人たちが20年後30年後に長井市っていい街だな、ぜひ住みたい、戻りたい、あるいは直接縁がなくても長井っていい街だな、ちょっと遊びに行きたいねと。そういうふうに思ってもらえるような街にしたいですね。
これからも人口減少の中でお互い支え合い、励まし合い、そして遊びを楽しんだり、それは芸術文化もスポーツもね。
あとは外国人やあるいは障がいをお持ちの方、性別とか宗教とか思想とかそういったことをお互い理解し合える寛容性のある街ですね。そういう街をつくることによって、若い人、そして我々高齢者もお互いを理解したうえで尊重しあう。そんな街にしたいと思いますね。

 

素敵ですね。そんな街に私も住みたいと感じました。

 

おわりに

多様な経験があるからこそ、多角的な視点で市政に取り組んでこられたお話が印象的でした。
人口減少時代の難しい舵取りに責任をもって取り組む内谷市長に今後も注目です。

貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

自治体と共に地方から日本をおもしろく