日々、本気で実行する首長の想いに迫るインタビュー企画、第3弾。

今回は宮城県富谷市の若生裕俊市長にお話しを伺いました!

首長に立候補する以前のことから、職員への期待までたっぷりお話頂きましたので、その模様をお届けします。

富谷町長(※平成28年10月10日から市制に移行)に立候補したきっかけを教えてください。

平成27年2月の町長選挙に立候補したのですが、それが実質、富谷市の初代市長を選ぶ選挙でもありました。

町民の中から、「みんなで初代富谷市長になる新しい町長を擁立しよう」という有志の方々が立ち上がりました。

私がその町民の皆さんからの要請を受けて立候補した、というのが正直なところです。

もし私が「町長、いや新市長に立候補してほしい!」と言われたら、かなりビビってしまいそうです… そんな中でも、若生市長が立候補を決断した決め手は何でしたか。

実は、町民が立候補を打診した候補者は、私を含めて3人いました。

他の2名の候補者の方が素晴らしい方々だったので、「私は3番手かな」と考えていましたし、自分が町長に立候補するなんて思ってもみませんでした。

しかし、その2名の方々が、町長選に立候補するのがどうしても難しいということになってしまい、最終的に残ったのが私でした。

既に多く住民の方々が立ち上がっていましたし、新しい町長を擁立することに対しては、私も賛同しており、立ち上がった町民の皆さんの思いも痛いほど分かっていました。

一方、当時の私は、会社をいくつか経営していて、経営は順調、社員も家族もいて、十分に安定していました。

もちろん、「なぜ安定してる生活を手放してまで立候補しなければならないのか」と家族から反対されました。

選挙活動の際には家族や周りの人も巻き込みますし、選挙資金の問題をはじめ、心身共にハードですからね。

しかし、もし私が断ったら、「富谷のために立ち上がった方々はどうなるのだろう」、「彼らの熱い想いはどうなるのだろう」と考えました。

また、生まれ育った富谷に対する想いは誰よりも強いという自覚がありました。

立候補を決断するには、非常に勇気がいりましたが、自分の富谷に対する想いや、富谷のために立ち上がった町民の皆様の想いを無下に出来ない、ということが決め手となり、「自分はボロボロになっても構わない」と決死の覚悟で立候補を決断しました。

「会社を経営していた」というお話もありましたが、富谷町長に就任される前は、どのようなことをされていたのですか。

元々は富谷市内の農家の長男として生まれ、家業を継いで農業をしていました。

当時、米の生産調整が開始されたり、一村一品運動が全国的に盛り上がったりしている中で、「お土産として持っていけるような富谷ならではの特産品がない」という課題がありました。

そこで、富谷の新たな特産品として、ブルーベリーの栽培を若者6人で開始しました。

農業をしながら、様々な青年活動にも取り組んでおり、その活動の中で色々な出会いがありました。

そこで出会った友人の想いに心を打たれ、31歳の時に、設計に使用されるCADシステムの事業で起業しました。

最初は苦労しましたが、社員達と共に2年、3年とやっていく中で軌道に乗っていく中で、様々な事業に進出するようになりました。

その1つがレストラン事業です。

元々自分が農家、生産者だったこともあり、食材を無駄にしてほしくない、なるべく地元の食材を使いたいという想いが強く、自分の仲間たちに声を掛けて、食材を集めました。

また、生産者の苦労、想いを伝えるために、メニューに生産者の顔と名前を載せました。

当時としては画期的な取り組みで、メディアにも取り上げていただき、繁盛しました。

しかし、外食用に最適化されていない地元の食材の使用を心掛けるあまり、食品原価の高騰という壁にぶち当たってしまいます。

そこで出会ったのがファストフードに対する考え方である「スローフード」です。

大量生産・大量流通によってファストフードが生まれ、世界中で味の均一化が進みました。

これに対してスローフードは、味の多様性を重視し、その土地の食材や食文化を守ることを目的としています。

この考えに感銘を受け、県内でスローフード協会を立ち上げ、その後、日本の初代会長として、日本全国でスローフードを広める活動をしておりました。

2007年には、国際本部執行役員でもある国際理事にも選ばれ、世界各国を訪問する日々を送っていました。

そんな中、東日本大震災が発生し、我が郷土宮城が壊滅的な被害を受けたことを知り、世界を周っている場合ではないと思い、スローフードの活動は休むことにしました。

震災発生後はどのようなことに取り組まれましたか。

津波でお店を流されてしまった飲食店の店主たちが再出発出来る環境を作らないと、代々受け継がれてきたその土地の味が失われてしまうと考え、身体1つでスタート出来る場、そして復興のシンボルとして「復興屋台村気仙沼横丁」をオープンさせました。

店舗数が限られていることと、1回来て終わりではなく、リピーターになってもらうためには、クオリティを保つことが必要だと考え、出店希望者に対して公募を行いました。

面接をしていて、被災された方の想いに触れた途端、涙が止まらなくなり、「この人たちの想いを裏切る訳にはいかない」という想いでいっぱいになりました。

その日から、屋台村オープンに向けて懸命に働くようになりました。

会社を経営しながらだったので、毎日2時間かけて富谷や仙台から気仙沼に行き、また2時間かけて戻ってくるという生活を送っていました。

大変でしたが、無事屋台村がオープンし、真っ暗になっていた被災地気仙沼の港に提灯の明かりが灯った時は、皆で涙しました。

その瞬間を今でも忘れません。

お話を聞いていて、関わる人の想いに共鳴してアクションを起こしている点が印象的でした。 なぜ「想い」を大事にしているのでしょうか。

人の想いというのは、汲んでも汲んでも汲みきれません。

それと同時に、自分の想いを正しく理解してもらうのも難しいです。

しかし、想いを理解しようと一生懸命耳を傾けると、「この人は私の想いを受け止めようとしてくれているんだ」という信頼に繋がります。

信頼関係がなければ、時には普通に言ったことでもネガティブに捉えられてしまう場合もあり、自分の想いが誤解に繋がる恐れがあります。

信頼関係の構築や、より良い相互理解のためにも、想いに寄り添うことを大切にしています。

首長として行政を運営していく上で、経営の経験をどのように活かされているのですか。

民間企業は、日々移り変わる環境の中にありますので、スピード感が大事なんですよね。

また、民間企業の場合は、常に自分で責任やリスクを背負わないといけないので、決断力も鍛えられました。

職員にスピード感を求める以上、私も迷っている訳にはいきません。

色々な人に相談して意見を集め、即座に決断する、ということを私も気を付けています。

市役所職員の方々には、どのようなことを期待していますか。

市民の皆さんの声に耳を傾けるよう、常にお願いしています。

大きい声は黙っていても飛んできますけども、声なき声、小さな声にはこちらから耳を傾ける努力をしないと聞き取れないので、耳、そして心を傾ける努力をして頂きたいです。

あとは、「すぐやる」ことも重要です。

特に、市民の方から相談があったらすぐ対応するといったことですね。

最もしてはならないのは、相談されたことを放置することです。

やはり、市民の皆さんは困って相談するので、相談されたことは、すぐに確認をする。

すぐに対応出来るのであれば、すぐに対応する。

そして、出来ないことは出来ない理由をしっかり説明するようお願いしています。

加えて、「とにかくいろんな提案をしてください」ということも職員の方々に常にお話しています。

良いことはどんどんやりましょう。

責任は私が全部とりますから、不安に思わないで、色々なことを提案して頂きたいです。

そのようなマインドを職員の皆さんに醸成するために行っていることはありますか。

経営をしていた経験からも感じることですが、組織は人が全てです。

民間企業にとっては、人が業績に直結するので、人の能力を最大限発揮できるようにするのが経営者の一番の責任であり、必要とされる能力なんですよ。

役所に関しても、民間企業と同様に、市の発展のためには一人ひとりの能力をいかに引き出すかが重要だと考えているので、職員たちが能力を最大限に発揮できる環境づくりに努めています。

風通しの良い職場にするよう、幹部職員の方々にもお願いしています。

これからの市政にかける意気込みをお願いします!

今回無投票で当選させていただき、直接皆さんからの審判をいただくことなく再選しました。

そういう意味では、これまで以上に、とにかく市民の声に耳を傾けることを大事にしなければならないと考えています。

また、何をするにしても、職員の一人ひとりの力が必要です。

職員の皆さんの活躍が富谷市の発展に繋がりますので、職員の皆さんが活き活きと働ける環境を作り、オール富谷で「住みたくなるまち日本一」の実現を目指していきます。

また、何をするにしても、職員の一人ひとりの力が必要です。

職員の皆さんの活躍が富谷市の発展に繋がりますので、職員の皆さんが活き活きと働ける環境を作り、オール富谷で「住みたくなるまち日本一」の実現を目指していきます。

首長に就任以前から人の想いに寄り添い、その想いの実現のために尽力していた若生市長。

市長としても職員の「やりたいこと」を求めつつ、住民の想いに耳を傾けるよう職員に呼びかける姿が印象的でした。

若生市長、素敵なお話をたくさんお聞かせいただき、ありがとうございました!

 

 

佐藤 桃子 MOMOKO SATO

東北大学経済学部在学中。
2018年2月にMAKOTOグループにインターンとして参画。地方自治体向け新規事業開発、広報等の業務に従事。

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